「映画は映画だ」と「シークレット・サンシャイン」を見て

DVDでですが、2本の韓国映画を見ました。「映画は映画だ」と「シークレット・サンシャイン」という映画です。いままであまり韓国映画を見ていなかったのですが、先日、最近韓国映画にはまっているという方の話を聞くとなかなか面白そうだと。そして、早速見てみようと思い、まずはこの2つの作品を見ることにしました。



「映画は映画だ」
原案・製作:キム・ギドク 監督:チャン・フン 出演:ソ・ジソブ、カン・ジファン他

ストーリー(wikipediaより)
「映画俳優のスタは、アクションシーンの撮影でつい本気になって相手に怪我を負わしてしまう「常習犯」。現在撮影中の新作映画でもスタのせいで相手の俳優が大怪我をして降板、スタは窮地に陥る。つい自分で代役を見つけると宣言してしまったスタだが、もはや誰も引き受けてはくれない。そんなときに思い出したのが、つい先日ふとしたことで知り合った、スタのファンで俳優志望だったというヤクザ、ガンペ。今でも俳優への夢を忘れられないガンペは、スタの提案を受けるが、アクションシーンは「ガチンコで」という条件を付ける。ヤクザのような俳優と俳優を夢見ていたヤクザのガチンコ勝負の映画撮影が始まる…。」

ヤクザのような俳優と俳優になるヤクザが交錯することで、映画の中で描かれる暴力と、現実に起こる暴力のその冷徹さの違いを見せつけられます。俳優のスタはヤクザであるガンペを誘った時から、反対にガンペはスタの映画に参加し始めた時から、二人の男は映画と現実のどちらの世界も行き来することになり、そのことが2つの世界の差を浮き彫りにしていく。
現実の世界の厳しさをガンペを通して痛い程味わうスタ、映画の世界の厳しさと面白さ、束の間の休息のような感覚をスタと映画を通して味わうガンペ。
何となく北野映画からの影響を感じずにはいられない瞬間は多々ありましたが、韓国俳優の肉体的力強さ(兵役を通過してきていることが大きいと思います)は暴力的なシーンや視線でのやり取りをより迫力あるものにしていると思います。
結末として、映画の完成と現実の落とし前を並列に扱うところが少しクサさは感じるものの、「映画は映画だ」(つまり、「現実は現実だ」)を決定的にしていて、強いインパクトを感じました。



シークレット・サンシャイン
製作・監督・脚本:イ・チャンドン 出演:チョン・ドヨンソン・ガンホ

ストーリー(wikipediaより)
「夫を亡くしたシネは、幼い息子と共に、夫の故郷である密陽市に引っ越し、ピアノ教室を開き新しいスタートを切る。息子との穏やかな日々を送っていたが、ある日息子を誘拐したという電話が入る。」

光の中からは闇は見えない、でも一歩闇の中に入れば自分が闇の中にいることも光が遠くにあることもわかる。夫を亡くし、最愛の息子を殺された主人公シネはなんとか現実を受け入れ、気持ちの折り合いをつけようと宗教へ入信しますが、子供を失った心はそんな簡単に納得することなどありません。生活の中で信仰する神とも折り合いがつかなくなるシネ。強い悲しみと喪失感は、一人の人間には強すぎ、耐えられるものではありませんでした。
映画を見ながら、平野啓一郎さんの「決壊」という作品を思い出しました。「決壊」の主人公は、様々な事件や出来事の中での強い悲しみ、喪失感から、自己を回復する術/人間が持つ立ち直りの機能を失ってしまう。大き過ぎる負荷は、一人の人間から人間としての機能を簡単に消失させてしまう。「シークレット・サンシャイン」のシネは、その耐えきれなさから意識せずしてリストカットをしてしまう場面がありますが、そういったシーンからも自己回復の不可能性は強く伝わります。
ただ、シネの場合は、神ではなくもっと近くにいた一人の男性ジョンチャンの存在がその回復を助けそうです。この映画に出てくる男性はみんなどこかだらしなく描かれている。ガソリンスタンドに集まる男達も、駐車場でたむろする男達もスケベな話をして、女性にはイヤラシい視線を向けるものばかり。シネをずっと見守り続けるジョンチャンもはじめはそれらのうちの一人として描かれますが、徐々に変わっていく。ジョンチャンという人を映画の中の男性集団の中から独立させることで、誠実性や献身性を強いものにしています。
最後のシーンで、ジョンチャンの存在は大きなものとなり、シネがこれから時間はかかるものの少しずつ回復していくのではないかと思わされます。「シークレット・サンシャイン」とは身近に自分だけを照らしてくれる光の存在のことかもしれません。それは気休めの宗教ではなく、最愛の息子やジョンチャンの存在なのだと。